外見至上主義

と言ったら語弊があるかもしれません。
私は自分の顔が醜くて大嫌いです。
きっと誰にだってコンプレックスくらいある、と多くの人がそう答えるだろうし自分も頭ではわかっています。
それでも醜くて辛いです。

化粧も服も好きで、選んだりコーディネートを考えたりしてる最中は楽しいのですが、いざ服を着て出掛けると(この面で何でこんな格好してるんだろう…)と恥ずかしくなって嫌になります。他人が自分の姿を見てるとか見てないとかそういうことではなくて、自分で自分が恥ずかしいって感じです。

それに最近、芸能人のすっぴんを見ると、30分近くかけて化粧をした自分の顔はなんて無駄なんだろうと思えてきます。
たとえすっぴんを公開した芸能人が寝汗などをかいてテカった顔だとしても、私の化粧後の顔は足元にも及ばなく醜いと。
落ち込まないために、(公開したすっぴん画像は何枚も撮っていいやつをえらんでいるんだ)と思ったりしたのですが、そんなことを思った自分が気持ち悪くてたまりません。

おこがましくて詳細を述べることは出来ませんが、日々の努力は無駄ではなかったと思えるような出来事は多々ありました。
ですが、何一つ喜ぶなんてこと出来ません。言葉で表せない違和感があるんです。

なんとなくですが、何故こうなったのかという原因はわかっています。そこまでわかっているのに噛み砕けない、解決できない自分がいます。
10代の思春期時代に、自分と他人を比べるというのは当たり前にあることですが、こんな歳になってまでまだ飲み込めてないなんて…


周りを見ているとこんなことで悩んでいるのは自分だけのように思えてきます。
でも実はそうでもないものなのでしょうか?

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巳鈴

巳鈴さん

2011/7/17 13:09

努力して手に入るのって
感じのよさとセンスや華やぎと、ある程度のきれいさじゃない?と思います。

言動も外見も素晴らしい人がたまにいます。
内面の美しさが外に出る、とか努力すればいつかは報われるとか、耳障りのいい言葉だけれど、当たっている面もあるけど本質的には美辞麗句にすぎないと私は思います。

私は美しい人は足が速い人のようなものだと考えています。

努力してももともと速い人とは比較にならなかったのですが、人間は不平等に生まれ付いているではないですか。私は足が速くない人の人生を生きていますが、もう自分は足が速くないとか普段考えません。

めちゃくちゃ綺麗な人はその人なりの風景を見るでしょうが、そんなに綺麗でない自分も自分なりの風景を見て過ごしていきます。
とても美人な人には見えないことが見えているのは良い点ではないですか。

「日々の努力は無駄ではなかったと思えるような出来事は多々ありました。
ですが、何一つ喜ぶなんてこと出来ません。言葉で表せない違和感があるんです。」

とありますが、それは外見で手に入るものって、手に入れてみる浅薄だと感じるものだったからではありませんか?
手に入らないうちはものすごく価値のあるもののように見ていても、手に入ったらこんなもん?と感じることは外見だけではなく、他の面の努力においてもありますね。

理性のあるという印象の友人が、共通の友人に対して、軽口っぽくだったけれど顔について「あなたと一緒にしないで!」という意味のことを言っていて、がっかりしました(がっかりする自分も勝手だと思いますが)。
そう言った子は周りの友達から常に「美形だ」「見惚れる」「べっぴんだ」と褒められていた子で、それで調子に乗っているところなど見たことなかったのですが、その一件で「実は美人のプライドあるんだ・・」と思ってしまいました。
そこで「そんな面があるのも人間らしい」と大らかに捉えることができない自分も大した器じゃないけれど。

長い人生、見えるものが多いほうが私はいいと思います。

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