
3月の長崎旅行レポートの続きです
☆初春の長崎へ*佐世保&九十九島編
☆初春の長崎へ*ハウステンボス編
☆初春の長崎へ*出雲&島原編
出雲から長崎市に向かう朝、雨が降りました
今回の旅で初めての雨
3月9日 長崎市内 出島
雲仙9時発のバスで、約1時間40分
10時40分に長崎駅に到着
そこから、今夜泊るホテルに行き、昨日から長崎入りしていた熊本の友達と合流
その足で、ホテルのすぐ傍にある出島へ
出島はご存知、江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島
ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁じ、住民と隔てる為に造られました
鎖国期に西洋に開かれた唯一の窓口となり
様々な貿易品や学術、文化などが伝えられました
ところで教科書で習い見た出島は
それが現在は
移築したかと思っちゃいますよね
安政6年(1859年)から、徐々に周囲が埋め立てられ
明治37年(1904年)には、その周辺は第二期港湾改良工事によって、完全に埋め立てられてしまい、かつて扇形をしていた出島は姿を変えてしまったそうです
西側メインゲートから入って
まずは左手にある「一番船船頭部屋」へ
オランダ船船長の宿泊所、および商館員の住まいとして使われていて
1階は倉庫として使用されていた土間
2階の船長の部屋
オランダ商館員の部屋
女性の部屋かと思わせる程、調度品が可愛いですね
復元でしょうが、家具のデザインも素敵です
その隣には、.一番蔵・ニ番蔵・三番蔵と蔵が続きます
砂糖や染料の材料などの輸入品が収納されていたそうですが
現在は、展示場となっています
美しい調度品が持ちこまれたのはもちろんですが
こんな物までも
植物や動物も持ち込まれた様で、さぞかし当時の日本人は驚いたでしょうね
蔵の反対側には、出島で一番大きい建物「カピタン部屋」があります
オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用されていた建物
出島で一番、力を入れて復元させた、自慢の建物だと係の方がおっしゃっていましたが
そうおっしゃるだけの事がありました
その美しさたるや
まず目についたこの建物の大きな特徴は、外から二階へ直接通じる、屋根付き三角階段
そして二階に上がると、明るい玄関の間
壁紙や天井に使われているのが、唐紙というもの
中国の唐から伝わった美術紙のことで、初めは料紙(書道の紙)として使われていたようです
和洋折衷様式と言われていますが、中国の要素も入っていますね
とてもモダン
これだけで、部屋中が華やかになりますね
しかしこの唐紙、現在の壁紙と違って、半紙位の大きさ(書道紙に使われていたくらいですから)
それを、1枚1枚繋ぎ合わせて、壁や天井に貼っているのです
カピタン部屋の間取り
これを見れば、この建物がどんなに大きいかわかるでしょ
17.5畳の部屋
玄関脇にある、主要な事務を執る部屋だったと考えられています
15畳の部屋
やはり商館の事務室として使われていたそうです
大広間
35畳もある最も広い部屋で、日本の役人や大名などが出島を訪れた時の、接待の場所としても使われていました
涼所
ここから当時は、海が臨めたそうです
この手すりのデザイン、建築に詳しくないので何式と言うのでしょうか
そしてガラスや緑のペンキは、オランダから持ち込まれたものだそうです
更に先に進むと、輸出用の陶磁器などの倉庫であった石倉
その横に
対岸の長崎の町から出島に通じる唯一の出入口表門
更に、美しい洋館の「旧長崎内外クラブ」
1903年(明治36年)に、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられました
「ケンペル・シュンベリー記念碑」
出島の三大学者、ケンペル(1651~1716)、ツュンベリー(1743~1822)、シーボルト(1796~1866)
そのシーボルトが、他の2人の学者の偉業を顕彰して建てた記念碑
ミニ出島もありました
実物の15分の1の模型
何故か賽銭が置かれていました(笑)
日本人って面白いね
ここは、1つ1つじっくりと見ていると、とても時間を要する所ですね
もっと見ていたいという気持ちを抑え
次なる目的地へ
そう、例のあの場所へ
雨はすっかり止み、青空が広がっています
to be continued・・・
ランキングに参加しています。今日もワンクリックお願いします


































コメント(0件)
※ログインすると、コメント投稿や編集ができます