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私の落としどころ~女性として、マイノリティとして生きる覚悟…

私の落としどころ~女性として、マイノリティとして生きる覚悟…

私が11年前に、完全なひきこもりから、不安いっぱいの中、
リコーダー・アース・ブリッジを立ち上げた時、
それはある意味開き直りと覚悟でもありました。
リコーダー演奏して、自分のことをしゃべって、
それで生きていける自信は到底ありませんでした。
今でもそれで生活していける自信があるかと問われれば、正直ありません。
それでも、自分の抱えている障害を素直に受け止め、
できないことはできない、そしてできる範囲で精一杯ベストを尽くす。
そうして、障害と向き合ってきました。


そして、3年前、私は子供の頃から何気なく抱えていた性別への違和感と
はっきり真正面から向き合うことにしました。
私は女性として生きたい。
そして、セクシャルマイノリティについて知ることになります。

これまでの保健体育で習ったような性では片付けられない、性別を巡る
様々な悩みや苦しみがあること。人の数ほど性別はあること。
理解してと言うのではなく、ただただ知ってほしいだけ。
そんな思いから、自分の経験をこれまで綴ってきました。
男性と女性が惹かれあい、結ばれ、子供を設けると言う命のリレーに
逆らうものだと厳しく批判されたこともありました。
多くの友人が去って行き、正直、活動を立ち上げた時よりも活動が減った
のは事実です。

しかし、それ以上に、女性として生きると決めてからの私は、やっと
ありのままの自分でいられるようになりました。呪縛から解かれました。
まるで、ずっと首に巻かれていた縄が解かれたかのようです。

それでも、性別適合手術などで完全に身体を変えるわけでもない、
かといってぱっと見男性の身体を受け止めるわけでもない、
物凄い苦しみが生じました。

昨日までできていたことが突然できなくなりました。
ある日突然、男子トイレに入ろうとすると、呼吸が乱れ、まるで
高圧電流でも流れているかのようにはじかれました。
ついには、男性の肌着売り場を通ることも恐怖になり、
バスで隣の席に男性が乗り込んできただけで発作が起きるようになりました。

私は女性になりたいと思う以上に、これは罪なき男性の皆さんには
申し訳ないと思いつつも、やはり、男性は恐怖でしかないのです。

自分の身体を憎むようになりました。
ついには、ちょっと痴漢のニュースとかを見ただけで、なんだかんだいって、
痴漢した人間と同じ生物学的には男性で身体の構造は同じかと思うと、
自分が憎くて憎くてお風呂にも入れず、自分の身体を傷つけるように
さえなりました。

いい大人ですが、お風呂に入ることが私には恐怖でしかありません。
本当は温泉大好きなのに。
自分の身体を見ると自分の身体への憎しみが増大しそうだからです。

つい昨日も、お風呂に入るのが怖いと呟いたら、
こんなコメントがありました。


綺麗になるために、と、思って入ると良いかも!
笛ちゃん可愛い大丈夫だー(^o^)/
石鹸のにおいいいにおい!笛ちゃんもいいにおい!
きれい綺麗になぁれ♪(^ー^)ノ

まるでおまじないでした。

女性になりたいと思うだけで心がじんわり暖かくなり、
空を飛べそうなくらい、心が軽くなるのです。
全く自分に嘘をつかなくて済む爽快さ。

もうこれ以上、自分の身体を呪いたくない。

適合手術を受けるのは難しい。
物凄くいばらの道だけど、ぱっと見男性の身体のままで、
可能な限り女性として生きていく道を選んだのです。

これまで書いてきた通り、私の中ではただのぱっと見、
はりぼて、部品でしかありません。
私の中では心はもちろん、体質をはじめ、体内から発する
信号、すべて女性なのです。
四六時中、私は女性として認識して生きてます。
それが、お風呂に入る時に自分の身体、パーツを見て、
そのときに男性としてのパーツを嫌でも見なければならず、
それはまさにこめかみに当てられた拳銃です。

その身体で女性になりたいだなんてふざけるな。諦めろ。

銃を当てられてそう怒鳴られているような恐怖。

しかし、お風呂に入らないわけにもいきません。

そろそろ落とし所を見つけて、気休めでもいいから言い聞かせて、
着地したい。そう思って改めて恥を忍んでブログにしたためます。


自分の抱える苦しみという点からすれば、話すことはかなり勇気が
いるだけでなく、恥ずかしさもあります。
しかし、ある意味、私は開拓者かもしれません。

これまでの、思春期の身体とか妊娠・出産の仕組み、避妊といったことを
飛び越えた、男女二択ではない、「人の数ほど性別はある」という観点からの
性教育がこれからは必要だと思っています。
その生きた教科書になる覚悟すら私にはできています。


恥ずかしさもありますが、今、私は本当に着地点を探しています。
なので、ありのままを伝えます。

身体が男性、心は女性と一言では言えず、心身共に自分の中では女性。
それは実は母も気づいていたようです。
弟は一つ下にもかかわらず、私は普通の男の子のように成長していない
ことに気付いたそうです。
それは、いわゆる「生殖器」の部分でした。
なので、ホルモンバランスがどこか私は崩れているのだろう、と。
ぱっと見の身体は男性のパーツで、かといってちっちゃいこのままの
身体ならまだよかったのに、なまじ中途半端に大人の身体には一応
なったわけです。
なので、遅いならいっそ来なきゃよかったのに、二十歳頃になって思春期が
やってきて、髭が生え、いわゆる第二次性徴も起きたわけです。
子宮もなければ生理もありません。
悲しいかな、「男性としてなら子供を持てるじゃないの」と言われてしまう
悲しき機能までありながら、普通の男の子のように成長していない、
この人はいわゆる普通の男性として生きられない、女性の悩む体質も
抱え、周期、バイオリズムも起こる、まさに、男女混在のような身体に
なってしまったのです。これが私の、性同一性障害と一言で
片づけられない厄介な身体です。

そのうえで、死んでしまいたくなるほどの男性恐怖があります。

何度か、背に腹は代えられぬ、ぱぱっと男子トイレに行こうと
思ったこともありましたが、発作を起こしてダメでした。

わたしは、女性として生きたい。
それ以上に、できる限り、男性を捨てたいのです。

男性になりたい女性が生理を嫌悪するのと似ています。

どちらにも苦労はあるわけですが、女性になりたい男性で厄介なのは、
男性としての身体があることを悩んで打ち明けたところで、
男性として健康だとか、一応いっちょまえの男やんか、とか、
しかも、男は性的欲求が強くて当たり前と言われがちなところです。
いわゆる「男はおおうにしてエッチなものだ」というくくりです。
わたしにとってはもう死んだ方が楽と思えるくらい嫌悪感いっぱいです。

生物としての仕組みがあるからこそ、命がリレーされてきたことは
分かっています。でも、それを自分が受け入れて、それこそ人から
言われたように、子供を産めないけど、男性の機能があるなら子供を
もうけることができる、とは自分のことになるとそうは思えないのです。
女性になりたいのですから。
男性として生きることは私にとって死でしかないのですから。
男性としての身体そのものを嫌悪しているのですから。

子供を産みたい側なのに、女性を妊娠させることが出来る身体だと思うと、
悪いけど、衝動的に死にたくなります。
ましてやこの世にあふれる性犯罪を耳にするたびに、
こんなのとパーツ的には同じだと思うだけで、世界中の女性に、
こんな体ですみませんと謝罪して回りたくなり、男とくくられるくらいなら、
完全な女性の身体になれないなら死んでしまいたい、とさえ思い、
悶絶し、お風呂にも入れなくなり、自分の身体を見ることさえ嫌悪し、
生物学的に男性でごめんなさいと思い続けてしまうわけです。

どんなに嫌悪しても、性別適合手術を受けない限りは、
このにっくき身体のままです。
これまたにっくき男性としての機能も、母がポツリと言いました。
「もうあれよ、排泄しないと人間生きていけないのと同じと思って
割り切ったらいいよ」と。
髭にはじまり、どうにも変えようのない男性としての身体は
どうにもならないわけで、それこそ男性になりたい女性が、本人の望むと
望まざるとに関わらず生理がやってきて嫌悪するのと言ってしまえば同じ。
どんなに嫌でも、私の望むと望まざるとに関係なく、髭は生えてくるし、
男性としてのパーツは変えられないわけです。

ただ厄介なのは、さっき書いたように男性の性が快楽とか、
欲求のくくりで語られることです。
男性として生きるくらいならいっそ死んでしまいたいと思っている私に、
これをぶつけられたら、ますます死んでしまいたい思いが強くなるだけです。
自分を呪い憎みどうなるかわかりません。

清潔さの点でも、お風呂はほぼ毎日のことです。
ですから、気休めでもいいから、どこかで落とし所を見つけないといけません。
何かいい知恵はありますかねぇ。

その身体でふざけるなと言われそうですが、簡単には変えられないからこそ、
矛盾は百も承知で、それでも、女性として生きたいと思っています。


たとえ理屈に合わないと言われても、私はできる事なら子供を産みたい側、
私はお母さんになりたい。
最近、この子のもうひとりのお母さんになって、とか、
ちひろママ、一緒にこの子の子供服見に行ってくれて、コーディネートして
もらえたら嬉しいな、などと言って頂けて、ちょっぴりお母さんになれそうな…


トイレとお風呂が大きな悩みになってきます。
特にトイレは日常のことです。
女性として生きる以上、本音を言えば、トイレもお風呂も女性を使いたい。
でも、たかが張りぼて、されど張りぼてです。
多くの人は「張りぼて」で判断します。
なにも身にまとわないお風呂では「張りぼて」で判断されてしまいます。
たとえ「張りぼて」でもぱっと見男性なら、男湯に行くと、社会的には
問題ないでしょうし、お前の身体なんか誰も見ない、自意識過剰だと言われますが、
思いっきり女性の人が男湯に行けるでしょうか?
私の中ではそんな感覚なんです。心身共に女性と思ってますから、
とてもじゃないけど、男の集団の中に入ってなんか行けません。

ありのままの私を受け止めてくれる友人の幾人かは、一緒にトイレ行けるよ、
とか、私はちひろちゃんを女性と思ってるから一緒にお風呂行けるよ、
などと言って頂けることがせめてもの救いです。

これまで書いてきたことを整理して改めてつらつらと書いてきました。
これを書くたびに多くの人が私から離れていくかもしれません。
でも、それほどまでにセクシャルマイノリティは根の深い、深い問題なんです。
そして、マイノリティは1クラスに一人くらいの割合で存在すると言われています。
ですから単に私だけの問題ではないのです。


私、アースデイの時に環境に配慮した生理用品のブースをみた時に、
正直、自分の身体に生理がないことがすごく残念な気になった。
確かに生理痛になるときついかもしれないけど、
自分の身体にある自然に耳を澄ませるって素敵だなって、
女性の身体の神秘さを羨ましくさえ思ったのよ。
感動したの。 涙が出るほど。
でもその涙は、何とも言いようのないせつなさの涙でもあったの。

女性として生きたいと言った時、女性には生理があったり何たり、
着飾ってきれいとかそんな部分だけじゃないのよ、羨ましいだけなんでしょ、
と言われたけど、そうじゃないの、女性として生きたい以上、
いいところだけじゃなく、女性としてのリスク、痛みをすべて承知して
なお、すべて含め、私は女性として生きたいのです。
いや、女性として生きたいと思っているのに、女性ならみんなが
背負っている痛み、リスクを自分は背負っていないことに罪悪感すら
感じたの。
私がどれほどの想いでマイノリティと向き合おうとしているか、
長文ですが、これと併せて、改めてアースデイの時のブログを
お読みいただければ幸いです。

LOVE49から思う性と生、リアルな性教育、私の結婚願望。
http://ameblo.jp/rebnet/entry-11519669130.html

どうにもならない自分の身体と折り合いをつけ、女性として生きていく。
私はどう着地すればよいのでしょう…。
妙案があれば教えてくださいませ。
そして、マイノリティも含めた性教育として、多くの人に、
これまでとは全く違った「性」を子供から大人まで伝えたい。

様々な矛盾も批判も承知の上で、私は「女性」として生きていきたい。…

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