実は「断捨離」という言葉の発祥はヨガだそうです。
ヨガの苦行として、敢えて「断ち、捨てて、離す」ことで、本当に大切なものを感じるというもの。
最近ファスティングという言葉を耳にするけど、断食のことですよね。
腸リセットすることが健康に良いと言うダイエット方法とは別に、ヨガの断食には心の浄化も目的としています。
「食事を断つ」ことで、回復食という断食後の食事に満たされる気持ちを得られる。
つまり、「食べたい時に食べたいものを食べられる」ことがいかに幸せかを思い知る。
普段はそのモノがあること自体に有り難みすら感じていないのに、捨てるとなると躊躇する。
つまり人は「慣れる」からです。
「慣れる」私たちが意識的に断捨離することで、麻痺した精神をリセットする。
満ち足りた日常から離れて何が必要か、自分はどうあるべきかを考える中で、気づくことがあるという教えです。
例えば、事業に失敗して文無しに。
すると波が引くように、まわりから人が去って行き、その中でも支えてくれる人がいる。
お金を無くして初めて「自分」ではなく「自分のお金」に群がっていた人、そうではない人の存在に気がつく。
無くしてみて初めてまわりから見た「自分」がわかることってありますね。
結構自分のことはわからないものかもしれません。
子どもを家から出した私は、夫と暮らす日々で新たな発見が多々ありました。
それまでベクトルを子どもにのみ向けていた自分が、実は如何に夫に支えられていたか。
そして離れてみて初めて、我が子とひとりの大人として接することができる。
親から離れた息子たちも同様でしょう。
この自粛生活の中で、ひとはたくさんのことを断つことを強いられました。
その中で気づいたことがありませんか。
あんなにランチしていた仲間と会えなくなった。
いつでも会えると先延ばしにしていた相手と会えなくなった。
職場で顔を合わせなくなった。
その中でメールやラインじゃなく、やっぱり顔を見たいと思う人は誰ですか。
「しなくても結構平気なこと」
「会えなくなって本当に大切なひとと、そうでもないひと」
「普通にできていたことがいかに幸せか」
断ち、捨てて、離した時に、苦しみを感じる場合は、その対象に中毒している証拠。中毒は執着を生みます。煙草に中毒しているとこれを断った時に苦しみを感じ、人に中毒しているとその人から離れると苦しみを感じます。さらに物事に対する「慣れ」も中毒の引き金に。普段の生活に、ありがたみも、喜びも、感謝も感じられないのは中毒を起こしている証拠。だから「習慣性を断つ行法」を定期的に試みるのです。
私たちの神経は麻痺しやすいという性質があります。与えられ、守られ、助けられるありがたみを持てないのは、麻痺しているから。古代からヨガはこうした心の性質をよく知っていて、麻痺させないために「意識的に逆の状態を訓練せよ、それには断行・捨行・離行を行え」と教えています。
断捨離はモノに関して使われがちなフレーズです。
でもそれは人間関係においても同様。
ひとはひとに執着しがちで、また手放したものに未練を持つことが多い。
断捨離を繰り返すことで、自分がどんな環境で暮らしていたかを知る。
手放したら後悔しそうな自分は、何に執着しているのか、依存しているのか。
そうやって自分自身を見つめ、認めて、知るために行う修行。
私もはるか昔、大失恋をしたことがあります。
仕事に疲れ果て、ゼロからやり直そうと辞表を出したこともあります。
信じていた人に裏切られ、人間不信に陥ったことも。
でもその苦い経験の中でこそ、たくさんのことに気づかされた。
同じ思いを、大事な人にはさせまいと思う。
思いがけず失ったたくさんのことで、得たものがある。
それを「思いがけず」ではなく、意図的に行うのが断捨離です。
だけど本当は、失って初めて気づくのは遅いこともあると思います。
いちばん大切なのは、常にそれを心に刻むこと。
いつもまわりにある当たり前のものは、実は当たり前じゃないと。
常に感謝して生きること。
「今日も皆さんとヨガができたことに感謝して」
「当たり前に動いてくれた身体に感謝して」
「幸せな1日になりますように」
ヨガの終わりにインストラクターから聞く言葉に、目を閉じた私はいつも思います。
本当だなあ。
昨日より腕が楽になった。
姉の元気な顔を見た。
友だちから治ったというラインがあった。
洗車に帰って来た次男が、私の車も洗ってくれた。
夜が過ごしやすくなった。
黙っていてもまた秋が来る。
母が、義母が元気でいてくれる。
仕事があって、家族がいて、元気で、幸せで。
私はまた今日も、ヨガができました。
ナマステ=ありがとう。
みおmama姫さん
人見知りのヨギーニ
BCJIJIさん