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少年はその手に何も持っていなかった。金も、バイクも、女の子を喜ばせる話術も。ただ、あの子を思う気持ちだけは誰にも負けない、そう思っていた。
毎日部活を終えて、夕暮れのテニスコート脇を通る一瞬、その瞬間だけが彼にとって全てだった。いつも金網越しに、あの子がラケットを振る姿や、友達と楽しそうに笑っている顔を見ることができたし、運がよければコート脇の通路ですれ違うことがあったからだ。
もしも自分にあの子を喜ばせる武器があったなら。少年は一人の部屋で何度も夢想した。
ある日、クラスの女子の何気ない会話から、あの子が好きなタレントを知った。自分とは比べ物にならないほどのイケメンアイドル。それでもその日から少年は研究しまくった。その人の髪型、眉の形、そしてふだんの私服。そしてそのアイドルがつけている香水を知ったとき、少年の心が一瞬止まった。
彼女はこの香りを知っているだろうか?もし自分がこの香りをつけて彼女とすれ違ったら…。
ジャンヌ・アルテスのセクシーボーイ。少年はその香水を夢中になって調べた。
「ジャンヌ・アルテスは、1978年フランスのグラースで創設され、世界各国で主にティーン向けの安価なフレグランスを販売している巨大企業だ。日本でも多くのコスメショップでさまざまな種類の香水を販売していることで有名。
中でもブルーのボトルが目を引くセクシーボーイは、日本でも若者を中心に人気の香りだ。理由は、まず実売価格が500円〜1000円と安いことと、そして、安いながらも香料の聖地グラースの企業ならではの独創的な香りに仕上がっているからだろう。
では、どんな香りかというと。
トップ。雑味の強いアルコールが鼻を刺激してとてもキツい出だし。香料の特徴がよく分からないまま、苦みと薬っぽさの強いオープニング。クレジットには、アルテミジア、ミント、カルダモンとあってハーバル&スパイシー。柑橘の爽やかさはない。
5分すると香りはミドルになって安定してくる。まだハーバルな苦みはあるものの、次第に合成ラベンダーのクールさ、そしてそれを包むようなパウダリーなベールが感じられてくる。やがてアルテミジアの苦みが薄れてくるにつれ、少しメランコリックなラベンダーと、ミルキーなヴァニラがさらに主張してきて、内省的でクリーミーな香りになってくる。付けてから30分ほどした頃が一番いい。
香料は全て安価な合成香料を使っているようで、ミドルの香りが変化なく減衰していく。つけてから1時間ほどで消えるラスト。
セクシーボーイというネーミングと安価な値段に象徴されるように、はっきりティーンの男子向けな香り。それでも香水文化が浅い日本では、年代問わず似合う男性はいるだろう。ただし40歳以上は付け過ぎと「セクシーボーイつけてます!」とか自分で言うの禁止。イタすぎるから。
ラベンダーとヴァニラと来れば、往年の名香ゲランのジッキーで有名な香料の取り合わせだ。こちらはジッキーよりも荒く、暗く、そして仕方がないけれど、柔軟剤のようにずっと同じ香りが続く廉価版。それでもこの香りは悪くないなと思う。1年に1度くらい、強烈にこの香りをかぎたくなるときがあるのだから。似た物が少ない個性的な調香だと思う。それは時々行きたくなるラーメン屋の味にも似ている。そんなに美味しいわけでもないのに、つい食べたくなるラーメンというのがあるものだ。セクシーボーイはそんなふうに心に爪痕を残す香りだ。」
少年はその日、金網ごしにテニスコートを見ながら、やがて彼女がこの小道を歩いてくるのを待っていた。正確には、友達に電話するふりをしてずっとその場にたたずんでいた。買ったばかりのセクシーボーイの香りが、自分の胸元や首筋からこれでもかと漂っている。きっと彼女は気付くはずだ。そう思いながら。
はたして彼女が友達2人と小道の向こうに現れた。心臓が早鐘のように鳴り始める。つい背中を向けてしまう。不意に背中越し、女の子たちが「バイバイ」と言い合う声を聴く。
え?一人になった!?振り向く。彼女がこちらに歩いてくる。そのとき、彼女の横に男が駆け寄り、並んで歩いてくる姿が目に飛び込んだ。1つ年上の男子テニス部のキャプテン。あわてて彼らに背中を向ける。
あっと言う間に二人が自分の脇をすり抜ける。その瞬間、男が「う、くせぇ!」とつぶやく。少年はスマホに向かって一人しゃべりを続ける。「そうそう、いやあ、参ったわ、マジで。ははは…。」一瞬、彼女が振り向いた気がしたけれど、もうその顔を見る勇気は少年にはなかった。
彼女は本物のセクシーボーイと一緒に遠ざかっていった。夕暮れの空に、失恋ブルーのセクシーボーイの香りが、まだうっすらとたなびいていた。
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ジャンヌ・アルテスについて
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