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Nippon Beauty 再発見 全10回 美容文化研究室 @cosmeとPOLAが美容のルーツに迫ります!
第2回 「江戸時代流の修正メイクでセレブ美人!」
毎日を楽しむ庶民文化が花開いた江戸時代。女性のおしゃれ度も高くなり、キレイになるための好奇心・美意識も開花しました。 結婚したらお歯黒、子どもが生まれたら眉を剃るなどルールがあり、「白・赤・黒」しかメイクの色がなかった当時ですが、女性たちは工夫をこらしながら流行を追い求めてメイクを楽しんでいたようです。
美容の歴史について教えてくれるのは・・・ 日本の美容文化エキスパート ポーラ文化研究所 主任研究員 村田孝子先生 【写真】村田孝子先生
主に日本と西洋の化粧史・結髪史を研究。
セミナー講演、展覧会、著作などで成果を発表。

「ポーラ文化研究所」詳しくはコチラ
瓜実顔+細い鼻筋+おちょぼ口=江戸美人!?
【写真】都風俗化粧伝 一 般的な江戸時代の美人のイメージは、瓜実顔+切れ長の目+小さい口といったところでしょうか。当時のいろんな文献を紐解くと「色の白きを第一にする」ともあります。つまり、“色白”が美人の絶対条件だったんですね。色が白いと若く見られ、いつでも娘の肌のようでいられたと思われていたようです。白肌は美人の絶対条件だったけれども、それ以外のパーツに関しては、輪郭や個性を活かしてメイクしましょう、と文化10年(1813)に出された『都風俗化粧伝』にはうたわれています。今でこそ個性を生かしたメイクは当たり前ですが、実は当時から「その人の顔に合わせるべし」と必ず本に書かれてあるほど、パーソナルなメイク法が主流だったようです。

また、当時は身分・階級や既婚・未婚によってメイクの決めごとがありました。庶民はお正月や結婚式といったハレの日にだけちゃんとお化粧して、普段はあまりしなかったようですね。一方で遊女は仕事柄、毎日昼間から身仕度してお化粧します。そして江戸の吉原では、人気の高い遊女になると「お歯黒」をする習慣がありました。「お歯黒」は既婚女性の印。 つまり一人前の大人の女性であるという証明みたいなもの。人気の高い遊女も一人前の女性として扱われていたんですね。
一般庶民は、婚約すると「お歯黒」にし、子どもが生まれたら眉を剃ったりしましたが、婚期を逃した女性はある程度の年齢になると「お歯黒」したり眉を剃ったりすることで、周りの目も気になる当時の救済策になっていたようですよ。 【イラスト】「パーツを生かしたメイク」って江戸時代でもポピュラーだったんだ!
江戸時代の女性が目指したリップメイクとは・・・?
メ イクの決めごとがあった江戸時代ですが、特に江戸時代後期、女性たちは少しでも“美人の条件”に近づくために、バランスに見合った修正メイクを施していたようです。
人気遊女のおちょぼ口がブームだった時は、口の大きい女性は白粉を塗って唇の内側七分目に少し濃く紅を塗って修正していたと書かれています。目の小さい人は大きく見せるために瞼の上の白粉を薄めにし、薄い紅をさすなど工夫していました。また、眉を濃くして、鼻を顔よりさらに白く塗り鼻を高く見せることで、平面顔を立体的に見せるシェーディング法もなされていたようですよ。
また、唇に紅を何度も重ね、玉虫色の光沢を出す「笹色紅」というリップメイクが流行しました。でも当時の紅はとても高価で、贅沢に使えるのは上流階級か、裕福な商人か遊女だけでした。一般庶民はなかなか手が出なかったので、うすい磨り墨を下地に塗ってその上に紅を塗ると、笹色紅と同じように見えるということを発見したんです。

江戸時代でさえ、どんな状況の中でも女性はキレイになるためにこうした工夫や努力をしていました。そうした女性の“ココロのもちよう”は今の私たちにも十分通じているものがありますよね。
【写真】「都風俗化粧伝」「浮世四十八手 英泉」
【イラスト】自分に合うメイクをもっと研究したくなっちゃった! 現代は、時代と技術が進んで、悩みの解決方法も魅力的に見せるコスメもどんどん増えてきました。個性を生かしてメイクするのは、江戸時代も現代も一緒。悩みを個性ととらえれば、メイクはもっと楽しくなるはずです。今は、一人ひとりの個性を生かしてもっともっとメイクを楽しめる時代なんだと思います。
Beauty Column モテモテ花魁の人気の秘密!
『風流七小町 関寺小町』『吉原細見』 江戸時代の遊女や芸者は、お茶やお花、香道(お香)など多彩な芸事と、大名が来ても対等に話のできる教養を身につけていました。また、トレンドを発信するファッションモデル的存在でもありました。『吉原細見』という今でいうところの吉原遊郭ガイドブックを見ると、店ごとに遊女の名前が閲覧できる人気番付が載っています。人気の高い遊女には「合印」という山形マークがつけられていて、遊興費の目安になっていたとか。
例えば、文化9年の番付でトップクラスの人気を誇っていたのが花魁(吉原遊郭の中で位の高い遊女の呼称)、「大淀」。べっ甲の髪飾りをいくつもつけた豪華なヘアスタイルに贅沢な着物と帯、そして菊模様のど派手な鏡台というゴージャスっぷりから、相当なセレブだったことがうかがえます。当時1000人はいたと言われる遊女のNo.1は、江戸の人々の憧れ的存在。町の女性たちがこぞって彼女たちのメイクやファッションを真似ていたというのもうなずけますね。
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