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Nippon Beauty 再発見 全10回 美容文化研究室 @cosmeとPOLAが美容のルーツに迫ります!
第3回 「白肌」はセレブのしるし?いざ美白のルーツへ!
現在、小麦色の肌がステキ! といった見方もある一方で、「白い肌が美しい」という概念も女性の理想として存在します。美白は1つのトレンドでもあり、“より白く、より透明感!”を求め、今や美白モノは年々ヒートアップ。“美白”という言葉が一般に広まったのは近代だけれど、白い肌に対する憧れがあったのは実は古来から。“色白=美人”の条件だったので、当時の人もさまざまな工夫をしていました。2回に渡って、そんな“ニッポンの美白事情”をお伝えします。
美容の歴史について教えてくれるのは・・・ 日本の美容文化エキスパート ポーラ文化研究所 主任研究員 村田孝子先生 【写真】村田孝子先生
主に日本と西洋の化粧史・結髪史を研究。
セミナー講演、展覧会、著作などで成果を発表。

「ポーラ文化研究所」詳しくはコチラ
「美白」はいつから始まったの?
「色 白は七難隠す」という言葉があるように、日本では白い肌というのは美人の条件だったんです。現在では、シミを薄くしたり肌の色を白く見せるケアを美白と言いますが、実は古来からその概念は存在していたんですよ。その手段として、白粉(おしろい)を使って白く見せる手法がポピュラーでした。

では、白粉の由来はいつ? と言うと、ニッポンの女帝・持統天皇の頃ではないかと思われる記述が日本書紀にあるんですね。何でも、お坊さんの観成(かんじょう)という人が、中国の書物を見て鉛白(なまりおしろい)を作って献上したというんです。好奇心旺盛だったのでしょう、持統天皇は「あら、素敵! 」と大喜びし、そのお坊さんにたくさんのご褒美をあげたとか(笑)。無理もないでしょうね。当時中国というのはヨーロッパの玄関。ヨーロッパの流行が中国に渡り、遠路はるばるこのニッポンの自分の手元に届いたのだから、持統天皇の感激も相当なものだったに違いありません。まさに、ここから日本の「美白(白粉)」がスタートしたんですね。

中国西安の壁画などを見ると、女性の顔は白く描かれています。当時、日本の特権階級にとって中国は憧れの的。このような絵や書物を見たり聞いたりして、“白い肌がトレンドで高貴”という意識が上流階級の中で広まっていったのでしょう。室町時代の絵巻物を見ても公家や武家の顔は白く、庶民との身分の差がはっきり分かります。
【写真】「平治物語絵詩」
白粉は、上流階級だけで使われていて、顔だけではなく、手や首や襟足にも塗り、女性たちは全身の肌が白いことをアピールしていたんですよ。 【イラスト】セレブなら「白肌」は、お約束よ!
色白は、みんなの憧れ!にっぽん美白事情
【写真】幕末から明治時代に販売されていた白粉の包み 支 配階級に憧れて、美白(主に白粉を顔に塗るメイク法)が庶民に広がったのは、室町時代の頃でしょう。この頃、神社仏閣の縁起物にも白粉(おしろい)をしている女性が描かれるようになったんです。ここから除々に一般に広まっていったのではないでしょうか。本格的に白粉メイクが広まったのは江戸時代で、お芝居の影響も強かったかもしれません。女性の役を演じる歌舞伎役者は白塗りしていたので、町の人々はそれを見て憧れたんでしょうね。お芝居を見に行くこと自体、当時は一大イベントで、皆、夜が明ける前からおしゃれして見に行ったと言いますから。

江戸時代前期、流行の中心は上方(京都・大阪)だったのですが、江戸中期は江戸に移り、一気に江戸文化が花開きます。ここで、カラー刷りの浮世絵が出てきたり、川柳などが多く詠われて、庶民にもファッションが身近になりました。その中で当時の女性もだんだんと白粉を塗るようになったのです。

では、実際庶民はどこで白粉を買って使っていたのかと言うと、江戸にできたお店などで買っていたようですね。白粉の種類は主に、軽粉、鉛白の2種類。軽粉は水銀、鉛白は鉛白粉。鉛白粉は、ツキがよくて伸びもよい。水銀白粉は、キラキラして透明感が出ると言われ、薬としても重宝されていたようです。
また、日焼け対策として、とうの土(鉛白粉)を塗って一晩寝たり、漢方を塗ってシミを薄くしたり、いろんなモノを使って色を白くする工夫をしていました。卵の白身をといて顔に刷り込み、その後、糠(ぬか)で洗う、なんていう今でいうW洗顔も行われていたんですよ。つまり、今とまったく同じで、女性はパックをしてキレイに肌を整え、なるべく白く見せる努力をしていたんです。美白という概念はバッチリこの頃からあったんですね! 【イラスト】「美白」にかける努力は、今も昔も同じね♪
Beauty Column 色白は、世界基準のビューティスタンダードだった!
【イラスト】ホクロをつけた1650年頃のイギリス貴婦人。 ヨーロッパでは「色の白さ」は支配階級のステイタスを表すもので、若さ・健康の印でもありました。日本と違う点は、流行の発信が、歌舞伎役者や遊女たちでしたが、ヨーロッパでは、宮廷の女性たちが中心でした。その女性たちは、日本と同じように鉛白粉(なまりおしろい)を使って色を白く見せていたといいます。また、さらに! 肌の透明感をUPさせるために、血を抜いて少し貧血気味にしたり、青鉛筆でこめかみに静脈を描いて顔をより白く見せたりといった、それこそ命がけに近い努力もされていました。今聞くとえ〜っ? と驚くほど、ヨーロッパでの美白は、かなり激しかったんですね(笑)。

また、ホクロ(“パッチ”ともいいました)があると白さが目立つというので、スペードやハートや月や星・・・いろんな形のホクロをつけていました。今見るとギョッとするような顔なのですが、当時はそれが最新流行、ア・ラ・モードだったワケです。